先日の因果応報と、今一度読み返す本から思う事。

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「因果応報」

生前の名声や

財産等の有無は全く関係なく

その犯した罪が問いただされ、事を明らかにしたうえで

罪業に応じたつぐないをしなければならない。

善き心で行為すれば善の結果で、

悪の心で行為すれば悪の結果が出ることは、当然の理であるという。

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随分前に父の通夜の席でお坊さんが

「これから修行にいかれるのです。

残された人々がお父さんの為に積ませていただく善根は、

お父さんの供養となり行くべき道が違ってくるのです」と述べられた。

父の修行はどのような修行なのだろうと漠然と思ったが、

あちらこちらの寺参拝から縁のあった大和出版社の書の中に、

見事に描かれていた。

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人間修行の足りない自分が説明するのも、

気恥ずかしく申し訳ない気持ちであるが、

これもご縁と思って少々伝えさせていただく。

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仏や菩薩は、衆生に対し平等に分け隔てなく利益を与え、

慈悲と愛の手を優劣なくさしのべているという。

描かれた死後の世界は、

初七日から三回忌までに至る死後の旅が描かれていた。

罪を犯してないものは誰一人いるはずもなく、

残された家族や子孫らによる追善供養が

亡き人へ届き罪の軽減を頂けるとある。

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また、残された子供や身内らの財産の争いは、

ますますの罪深さとなって亡き人へ追いかぶさるように

修行中に苦しみが増すようだ。

子供の為と寝る間も惜しみ励んだ生きざまが

亡くなった後には、

争いのもととなると、たまったものではない。

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あの世で役に立つのは、

すべて現世で積ませていただいた善根だけである。

自分も約束を得て人間として人限界に生まれてきた身なのだろう。

人間の寿命から今の年齢を引くと

善きことを積む時期にも限りがあることを知らされてくる。


この世に生を受けた自分から

他の人々の悲しみを共にし、

苦しみの中にいる人が喜んでいただける事をさせていただくこと、

日々の暮らしの中では

集会での玄関の靴を揃えさせていただく事、

毎日の仕事の中で喜んでいただけること、

この人と巡り合えて良かったと思っていただける自分を目指すこと、

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自分の中に流れるご先祖を敬い

追善をさせていただくことも

追善を受けた亡き人への喜びとなり、

追善を捧げた人にも大きな善徳となるとある。

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追善供養も自分のできる範囲で

背伸びをせず、

故人を思いご先祖に感謝し

真心の入った心からの供養が

不純なものも寄せ付けず、

まっしぐらに修行途中の亡き人々へ届くように思われる。

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楽なときには誰もができる善根であっても

生かされている苦しみ途中で、

それに耐えながらも

他に喜びを与えさせていただく、

これが「発心する契機」となり、

生を受けた約束のもとに起因するように思えてきた。

貧しい文章であるが

今の自分が思った感想である。

感謝!