お亡くなりになった家族との語らい
昨日は、『施設長とお話がしたい』と、
先日、お亡くなりになったご家族が
わざわざ留守だったこともあり、二度も足を運んでいただいた。
自分を通し亡き義母を思い、
また、そこにご自身の人生を重ね、
大きな山を乗り越えたご自身と向き合ってもいたのかとも思えてきた。
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個々に与えられた人生を生き切るには、
人それぞれにご縁がある人がおり、
あるときは、生まれる前から知り合っていたかのように
勇気をいただき、
会話から、何でも挑戦できそうになる人との出会いや、
互いの人生観が変わるような影響力をいただく人など、
それは、
偶然ではなく
必然的に出会う場面のようで、
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介護という現場においても、
家族の一員に混ぜていただいたような錯覚もあり、
終末期においては、ご利用者を中心に家族間が交流し
そこに、
感謝のことばが当事者から家族へ伝えあうなど、
互いのあったかな愛が
あふれるように交流する場面では、
何ものにも代えがたい尊い時間となる。
今さらであるが、
尊厳死とは、
過去の日本では『自宅での終末から迎える死』であり、
それは生活の中の一部であり、
年を重ね、
それまで通っていた病院へ行くのも大変となり、
やがては起床も難しくなり、
そこへ町医者が訪れ往診に来ていただき
母や嫁いだ叔母等が泊まり込み交代で親を見守り看病し、
やがては、
父親が「先生呼べ」と慌てたような声から黒電話を握り、
医師から「ご臨終です」と告げられた時代があたりまえのようにあったが、
これが、
今でいう「尊厳死」なのである。
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人の生き方、暮らし方が個々に変わり、
一時は、何が何でも救急車!、医療優先となるのが当たり前で過ぎ去ってきたが、
高齢者や若くても精いっぱい医療を優先してもそれでも
助からない命となったときには、
本人の意思を尊重できるような時代となった。
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助かる命は、あらゆる手段を用いて助けていただき、
また、病気の進行があっても、
一年でも二年でも、
できる全てを受け入れようとする前向きな力も同様に大事であり、
ここに意思表示をすることが『どちらも尊厳』と思うことができる。
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しかし、自分の場合は苦痛が伴う助からない病気であるなら
すべての痛みをとる指示を依頼し、
決して無駄な延命はせず、
『どうぞ自然死でお願いしたい』と希望する場所で命を終えたいことを
自分は希望のカードに書いておきたいと、
やはり、グループホームで自然死で亡くなった
〇〇さんのお嫁さんの帰る背を送りながら脳裏にふと浮かんできた。
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大事なのは、避けずに元気なときから話し合うことが必要なことなのだろう。
日本尊厳死協会でも申し込みを受けてけている。