悟りを求める菩薩のよう
誰にも遠慮せず、
純粋に、今を懸命に生きる認知症の人から、
「このようにされると、私は嬉しいです」、
「このようにされると私は嫌です」と、
認知症が進行するほど素直に表現をいただけます。
言葉が通じなくても、
表情で、
態度で、
行動で、
過去情報からいただいた暮らしぶりから、
どこに置いたら良いのか不明だったパズルのヒントを素直にいただけます。
しかし、認知症を患うその人に心根を合わせなければ、
素直な表現も”変な人”としか見ることはできず、
認知症の人を視る心、
介護する側の度量により、
認知症の人の映り方がまるで違ってくるのは不思議なことです。
廊下を忙しく歩き出す理由、
1曲の歌から涙をぽろぽろと感情が湧き上がる認知症の人を、
介護者は、どのように視る事ができるのか。
純粋な心から流れ出る涙には、
純粋な心で受け取る度量が必要であります。
認知症の人の心の中に描かれている光景は、
介護者の心の中にも物語が描かれ、
互いに涙する姿は美しい人間愛にあふれます。
介護の強みに触れる介護は、
とても愛おしく、
懸命に生きている認知症の人の礎になろうとする姿は、
悟りを求める菩薩のようであります。