一人の意見として冷静に誰もが普通に話すこと、
「想定されないものも想定されるべきだった」
「個人的には人災だ」と、
今、この時期に来て、
世の中の原発への見方が変り、
ようやく、
人としての良心を取り戻す人々が東電の役職をもつ人々の中にも現れだしました。
先日の、市内のある集まりの挨拶の場においても、
多くの痛みを伴った災害直後の現状であっても、
自分の意見仁ベールをかけながら、
遠慮がちに原発のことを話している方がいらしたが、
それは、
原発事故からの距離や
痛みの加減を知りえる度合いがそうさせるのでしょうか。
福島で今も直、戦う人々の中では、
そのような意見は出てこないでしょう。
発言内容も多くは、まると変ることでしょう。
何事も痛さは当事者にしかわからず、
せめて、
その当事者以外の人々は、
その痛さを理解しようと求める気持ちをもつことや、
自分だったら、
肉親だったらと、
擬似体験をする自分を描くことで、
相手の痛みが理解することができ、
原発のみならず、
今の世のあらゆる場面において求めらることなのかと,
気づく場面となりました。
それは、要介護者の残りの人生を左右する委員会であっても、
委員会の中の無言の圧力があっても、
なおさらのこと、
その会議の中に参加する一人の意見を持つ意味は強く、
後の原発の役員が苦しむ姿は、
無言で帰る参加者委員の姿なのかもしれません。
”なぜ、その場に自分がいるのか!”を
深い意味で考えることができたならば、
自分と正面から戦える、
精神性の高い自分が現れ、
世の中を正しい方向へと導いていただけるのでしょう。
戦後の日本において、
戦後生まれの自分達は、
東日本大震災から自分の意見を持つことの大事さ、
ものの見方、
考え方を一人の意見として冷静に誰もが普通に話すことが、
これからの日本において、
とても大事なことと未熟ながら思わせていただきました。
★★★
http://ameblo.jp/hayakawa-planning/