老親
久しぶりの正月の帰郷から
両親の老いた姿に驚き落胆し
心のどこかで悲しみを味わった方もいたのでは・・
中には叱咤激励することで
少しは元気になるのではないか、
昔の親の姿に戻るのではないのかと、
子は理解していたつもりでも
老いた親の姿を受け止めるには
信頼や尊敬の念が高いほど
時間を必要とし混乱することがあってあたりまえである。
へルマン・ヘッセの
『枯葉』の中にも、
そのような場面を納得しなさいと言わんばかりに語りかけてくるものがある。
枯葉
どの花も実を結ぼうとする
どの朝も夕暮れになろうとする
変転と時の流れのほかに
永遠なものはこの世にはない
この上もなく美しい夏もいつかは
秋のおとろえを感じようとする
木の葉よ がまん強くじっとしていよ
風がおまえをさらおうとしても
おまえの遊びを遊べ さからうな
しずかに なすがままにまかせよ
おまえを吹きちぎる風のままに
吹き飛ばされて家に帰るがよい。
人は若者もいつかは親と同様の姿になり
”老い”をやっと理解できるときが来るが
そのときにはすでに両親はいないだろう
人は老いること、
人は死ぬことを
言葉では理解していても
心のどこかで自分の親は無縁のように錯覚している自分がいた。