社会という大学

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人にも動物にも必ず死があることは、誰もが知っているが、

だが、親しい人の死から改めて「死」があったことを悟らされ

もう一度「生きる事・死ぬこと」と覚悟させられる場面がくる。

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しかし、真逆の視点から見ると、

この世の中に「誕生」すること。

多くの生命が存在する中で人として誕生することができたという現実は、

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森信三氏の言葉を借りれば、

生命を宿しているということ自体が、

超個の大生命が自ら個的限定の中に局限することにより、

初めてこの地上の「生」を得るわけであると説いている。

また、何らかの意味における制約限定を受けるのでなければ、

この地上にその存在性を賦与させてることは不可能だとも。

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そう考えると、

今、人として誕生した自分からの役割、

それぞれの職業、

家庭の中においても、

引退をされた身であっても、

病床の中にあっても、

「生きている」という、

また「生かされている」という限定の中で

夫々の役割が誰にでもあるように思えてくる。

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誕生から育てていただき、

社会という大学へ入り、

日々、解答のない試験と闘い

「自分は運が悪かったかなー。

あの人の暮らしは楽でいい」と思うこともあるが、

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試練の多い人ほど上級の大学へのコースであり、

その人等は、

誰よりも早く世の中の正解を得た人なのだろう。