覚悟を決める最終の本人の意思の確認

数年前の過去をふり返るとき

ときどき加齢から意識を消失される方がいたが

救急搬送をしてもどこも異常は見つからず、

最終の判断について本人にお聞きすると

『酸素でも、呼吸器でも何が何でも生きていたい。

しかし、朝になって呼吸が止まったまま戻らないときは

仕方がありません。寿命ですから』との言葉があった。

100歳に近い方からのその発言に、

いつも口癖のように言っていた

「そろそろ年ですからね。いつあの世にいってもかまわんのですよ』との

内容とは違い驚いたが、

*

とても重要な場面であり、

場所を変え

日をおいて

聞かせていただくと、

改めて死と向き合ったとき、

『認知症を患う妻をおいてはいけない』という、

真の自分の考えが浮かび上がったのだ。

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終末を迎えるまでには、

入所や入居時のそのときの意思確認と、

医師からの終末期判断時からの確認と、

また、事例のように本人が気づいていなかった真の自分と

向き合う場面も必要であり、

本人が後悔せずに、

命の行く末を決めていただくことが必要となるが、

何よりも本人の意思決定が一番の重要視となることは間違いない。

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反対に、やはり老衰で、

『苦しさが長引くので酸素もいりません。

痰が上がるので点滴もいりません。

最期は眠るように医療優先ではなく苦しくない看取りをお願いします』と、

緩和的な看取りを希望されても、

地方の現状では、

看取りをしていただける医者が不足していることと、

おまけにカバーする

24時間対応の訪問看護師の不足があり、

たとえ

住み慣れた家で

肌に馴染んだ布団で逝きたいと願っても、

多くの方々は真の希望に添えないことが多いのも現実である。

命をいただき

命のろうそくが消えようとしているときこそ、

判断をご自身が決めれるような支援が大事であり

関わる人も、どちらが先かは不明だが

残される人々の心模様も変わってくるのだ。

どちらにしても

経験のある事業所こそ、

慣れない事

慣れない様に学ぶことが現場では求められ

『人の命は重たい』と流されず注視することが必要であり

看取りの言葉が多くささやかれる現状から今更ながら深く考えさせられる

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