長谷川先生
今年明けから疲れが出たのか声が出なくなった。
昨日も頑張っていたが寝てしまい早朝に録画をみせていただいた。
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長谷川先生
2018年〜2019年の記録映像だった。
嗜銀顆粒性認知症(しぎんかりゅうせいにんちしょう)という病名。
先生は認知症が、
『こんなに大変な病気だったと思わなかった』とも。
慣れた山手線の乗り場も不明となり、いつも確認しなければいけない状況で、
自分が壊れていく環境で“確かさ”を確認する必要があると。
これは、認知症の人が何度も言葉を繰り返し尋ねる意味につながるのか?
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また、講演会では最後に予定されていた歌から始め周りを困惑させたが、
その出来事にも理由があった。
難しい話を聴こうとする人々の心に
ほんわりとした場を和らげる時間を与えるために歌が最初になったのだ。
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これは、自分も会場の雰囲気をやわらかくし
初めて出会う人々の、
互いの緊張をほぐし関係が良くなるように笑いの体操から始めるが
講師が初めにするアイスブレイクの一つだと思える。
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認知症の人の行動を聞いてみると、必ず理由があるのだ。
聞いてみることの大切さ
また、表情、態度から何を思っているのか、
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数年前に、元家庭裁判所の調停委員をしていたS子さんが、
ドライブ中にこんなことを言っていた。
『あのね。さくらをみたらきれいだなー。青空をみたらきれいだなー』と思うのに
なぜ、忘れてしまうんだろう。
なぜ思い出せないだろう。
『でもね。笑顔で私の前に来てくれたら、
ああ、この人は挨拶して良い人なんだなー と思うの』と、
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周りの人を観察する力は忘れていく分、研ぎ澄まされているようだ。
取材の人が長谷川先生に
周りの景色はどのように見えるかと尋ねていたが、
『周りの景色は変わらない』とおっしゃっていた。
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また『認知症になると余分なものははぎとられる』とも話されていたが、
昨年、認知症の人が災害時の記憶を尋ねると真剣に記憶を回想され
聞かせていただいたのも
余分なものがはぎとられ、
純粋な真実だけが伝わったからなのだろう。
まだ少し元気な自分等は、言葉を出すのに余計なことを考える。
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長谷川先生の発する言葉は、今、すべて認知症のテキストの裏付けになっている。
自分等が認知症について講義をし、
一番自分等が恐れているのも認知症という病気であるのだ。
足元にも及ばない自分等であるが、
長谷川先生の当事者の語りはその肩の力を落としていただいた思いだ。
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取材する人も、
その周りの人々も、
リハビリスタッフも、
医者も、すべて認知症になる可能性があるのだ。
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認知症は、自分の事として受け入れることの大切さを再度学ばせていただいた。
しかし、涙が出るのはなぜなのだろう。
どっしりと襲う感情から
辻井信之さんのベートーヴェンの悲愴を聞き、
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個人的には昨年から続いた遠距離の環境の変化からの
精神的ダメージも共に
先生の番組を通し癒してくれた。
やはり認知症になっても長谷川先生の偉大な力は存在していたと実感だ。