共に生きる 朝の時間から
集うことの素晴らしさ
宗派を問わず
人が自然と集まってきている場
宿坊と呼ばれていた下宿のような場には、
明日を生ききる糧もなく
行き場の無い人等を無条件で受け入れていた。
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「なぜそういうことが出来ることに至ったのだろう』と、
湧き上ってきたが
その人的魅力の高い僧は、
インド、パキスタン、ネパールにおける仏教体験からの過去があり現在があった。
カトマンズでは、
人として問われる生活も無く
開放された空間から人の優しさを感じ仏教の素晴らしさを感じと言う。
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豊かでなくても安心できる生活、
何という今の時期においては、やすらぎのある言葉だろう。
人は、この苦しみの中から学び、
生き方を新たにするチャンスなのか、と考える。
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その魅力ある層は、その過去が人としての原点となったようだ。
宿坊に過去を問わず人種を問わず、
来るものを拒まず、
『共に生きる』という姿を求めていた。
その僧は、
今、寺への階段から登れない車いすの人等が自由に参拝できるよう
自ら、手づくりで重たいコンクリートを抱えていた。
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『共に帰依(きえ)』するとは
『僧が自ら共に一緒に生きましょう』と降りてくることでもあるようだ。
誰もが集まる場には、
キリスト教のアメリカ人もおり様々な人々が宗派を超え、
優しさの中で自ら立ち上がっていた。
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蓮の花は泥水のなかできれいな花を咲かすが、
この蓮を例えると、
今の世の中が泥であるという。
蓮の花は、泥水のなかでしか生きないという一説もある。
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泥の中で泥に染まらず生きる人々が蕾であり、
まだ硬くて蕾にもならない姿や
もう、すでに大輪の花を咲かせている人もいるのだろう。
『共に生きる』という言葉から凡人である自分は、
欲もあり、
無欲にはなれない自分であるが
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そのように考える事ではなく、
自然体で生ききること、
その泥の中から
小さくても花を咲かす意味もあるように感じる心の時間であった。