名称のみに陥らない選択

洋服屋さん、

蕎麦屋さん

郵便局

研修

 

世の中には、

名称は一つでも、一歩踏み入れると様々な形がある。

直ぐ近くに、ちょうどよく地域に根差した簡易郵便局がある。

 

 

身内のことで、ある場所から品々を依頼され

時計と格闘しながら

揃え

無造作に箱に詰め

仕事の合間に郵便局へ持ち込んだが、

よく見ると

使い古しの箱にはバーコードが表記されていた。

 

 

局員らは笑顔で丁寧に段ボールに白紙を貼り

丁度、訪れた集荷の人へも『少し待ってください』と

依頼しながらも、

互いに気持ちよく受け取る会話に

心が温まる素敵な時間をいただいた。

 

(今日から通所する人の為に『縫ってあげるよ』と😿)

 

蕎麦屋さんも

介護施設も

研修の在り方も

ZOOM等のネットを駆使する講師と聴講生の立場になる研修も

『○○の課題が良く分かった』等の目的で受講する際には

とくに役立つ場面となり大助かりとなるが、

 

 

大事な何かを

収録した画面から一方的に伝える繊細さは自分は難しいと感じる。

いや、自分の力量ではできないと感じているからなのだろう。

 

(デイサービス華蓮 取り組み中)

 

認知症を伝える学びには、

文字や対応論からだけでは伝わらない

ことばの力、

その発する余韻が琴線に触れ『そうだったのか』という

納得に

作用しなければ

参加しただけで終わることになるのかなーと

・・・

近くの素敵な簡易郵便局の人等から、

いろいろな思いまで感じることができた。

 

(夜明け)

 

 

また、

これも一方的であるが

多くの人の心がいただけた、

荷物を受け取った人の笑顔が、

局員の笑顔と重なるような時間となった。