二宮尊徳の一円融合から思うこと

6月6日 「地域からの提言」を北光地区住民センターから発信するが
以前、取材で北海道新聞の記者から、地域とはどの地域を指すのですか、と問われたことがある。

 改めて考えると地域という単位は、北海道の地域・日本の地域と人々が暮らしを営んでいる地域であり広い視野をもった中での地域を捉えていたことを質問から気づきをいただいた。


 尊徳のものの見方、考え方は、この世の中で相対するものはすべてが互いに働きあい一体となっている。だから切り離して考えるのではなく、両方を合わせて一つの円とし、一つの円の中に入れて見るというもので、これを一円観といい、生命あるものは、いつかは死に、また生まれてくるといったサイクルが永遠に繰り返されるという。

その為には、いくつかのものと結びつき、あるいは溶け合って、たとえば種が草になり水や養分、日光・種の生命力などがとけて一つになっていく。これを一円融合といい、この一円融合が大切であると説いている。

 この尊徳の一円融合を考えたなら、自分だけではなく、地域、日本、世界、地球全体の融合があり、そこには人だけではなく生きる物全てが融合するのではないかと思う。

地域の老人や子供が暮らしやすい地域は、誰もが暮らしやすく疲れた若者が帰る事のできる場所となり、今の学校教育から勉強だけを優先させ、心の教育が不十分だった若者は、生きる力を失い精神を病んで閉じ籠もりになっている青年達が年々数多くなっている。

その青年達が地域の優しさに触れ心に潤うことができる場所となったならば、痛みの経験から立ちあがることのできる真の強さを持った地域の力となり宝となる。

人生には失敗はつきものである。失敗しても繰り返す者には厳しく指導を行い、反省している者には心を広げ地域で受け入れてこそ、真の意味の一円融合だと思う。

 日本の社会福祉の先駆者と言われている遠軽の留岡にある家庭学校の初代校長留岡幸助氏に、この二宮尊徳の教えが入っていたと塾長から伺った。

 尊徳の教えはこの北海道の遠軽の傷ついた子供達にまで行き渡っていたのかと思うと胸が熱くなると同時に深い縁を感じた。

 二宮尊徳が人々に思いが伝わらず、目的もなくたどり着いたところが千葉の成田不動尊である。そこへ21日間籠もり修行を行い開眼し、後のあらゆる仕法を行うに至った経緯が 小田原教育委員会が発行している
二宮金次郎物語に述べられてる。

 私の先祖の本家が遠軽であり、遠い昔の話であるが先祖が夜道を歩いていると、きらきらと空から舞ってきたのが不動尊である。

その不動尊のお社をつくり、そのお社に決められた日に地域の人々が集っていたという。

 きみおばあさんが中心となり、名付け親になったり人々の相談に乗ったりと何かと世話をさせていただいていたと幼い日に祖母や母から聞いたことがある。

 10年ほど前まで、そのお社があり長男と参拝したことがある。

塾長連載の介護ビジョン8月号が待ち遠しい。

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