自分という測定器
今、実践者研修の資料つくりを行っています。
こんなに多くの資料を一度に作製したことはありません。
受けた以上は、どのような場面においても自分を問われる場面となります。
資料つくりも介護も、どこまで本気で気持ちを集中する事が出来るのか、
手を抜こうと思えば、どこでも手が抜けますが何だか心が痛みます。
どのような仕事も自分がいつも問われているような気がします。
人との出会いの中においても常に「自分という測定器」を心の真ん中に置いておかなければ電波をキャッチすることはできず、その測定器から外れたマイナスの電波は知らない間に相手に不快感を与えることがあるのでしょう。
相手が気づかない不快感は自分が受けて初めて気づき、この気づきから自分の中に潜む不快感の芽をどれだけ摘むことが出来るのか、
自分を律するチャンスは世の中の人混みの中からも資料つくりの中においても、限りなく気づくことがありました。
待たせている事務局の人達に詫びながらも自分のそこつく能力を知っていても何だか手が抜けません。
姿と心を調える
我為汝略説(がいにょりゃくせつ) 聞名及見身(もんみょうぎゅうけんしん)心念不空過(しんねんふくうか)能滅諸有苦(のうめつしょうく)
われ、おん身のために再び略して説こう。観音のみ名を聞きなさい 。みすがたを拝みなさい。 心に念じなさい。
このようにして空しく過ごさなかったら すべての苦から必ず解放される。
「鏡を見るのは鏡に見られることである。ほとけを拝むのは、ほとけに拝まれることである」
心が忙しくなると、もの心がついた頃から祖母と一緒に先祖が眠る寺へ行っていたときの当時が懐かしく思い出されます。
参考文献 観音経入門