生きた学問、死んだ学問
松下村塾の塾生達は士農工商の身分制度は全く関係なく共に鶏の世話や蚕等を飼い、毎日12〜3人と手狭になった塾舎のために一緒になって塾舎の増築を成し遂げました。
自然発生の塾生達の中には下は小学生程度の者から上は大学生程度の者までが身分、年齢を超えて互いに協力をしていました。
徳川時代、湯島聖堂が最高学府として偉容を誇り教授陣は天下に名を広めた学者が揃い学生も各藩からよりすぐった秀才を集め教育組織を整えていたといいます。
それに比べ松下村塾は幕府からおとがめを受けた松陰一人であり幽閉されていた粗末な部屋で、生徒は近隣から自然と慕う青少年が集まって来たにすぎません。
しかし、幕末から明治維新の激動の困難にあたって、我が国の命運を賭ける課題に立ち向かい解決に己が命をかけ歴史にその名を残したのは松下村塾からであったという事実があります。
この歴史から、何を現代の私達は学ばなければならないのか、
死んだ学問というのは、天とのかかわりを失って真実の「自分探し」を忘れ、たくさんの知識は身につけるけれども、
良い就職口や名声を得たいとか名利の欲に走り、または物知りの辞典のような役割に満足しているのではないのか、
つまり、困難に至ったときにどのように生き抜くのか教科書には書いていないこの世の知恵が必要となります。
困難を解決しようと意欲に駆られる働きが、すべての原動力となり今日一日を生き抜く知恵から家族を守り、ひいては近所の人達までをも面倒を見るという個人の困難解消から天下万民を安ずる力へと転じていきます。
物事の基本がしっかり身につくと、どのような困難な場面に遭遇しても穏やかに生きていく事が出来るのでしょう。
未熟な自分は真の勉強の意味を松陰からたたきつけられた思いがします。
文献 人はなぜ勉強するのか 岩橋文吉 より