辛い時間と自分への課題
利用者Hさんは、毛布を体にくるみながら歩いてきた。
イスに座り書類をみていた自分の所へゆっくり、ゆっくりとやってきた。
「せん・・せい、・・・おねがいします。何とか・・・お願いします。・・・どうにも・・ならないんです。」と目に涙を潤ませながら訴えてきた。
理解しづらい言葉の羅列に最後の言葉を復唱して伝える。
「どうにも・・ならないんですね・・・。」
すると「そうです。・・どうにもならないんです。」とHさん。
「わかりましたよ。・・・いただいているお薬で時期に良くなりますよ・・・安心してください。」とゆっくり伝えると、
「ありがとうございます。・・・ありがとうございます。よろしく・・おねがいします・・」と手を寄せてくる。
思わず、両手でしっかりと手を握り「少しでもHさんの心が安らかになるように」と祈らせていただくのが精一杯である。
悲しい・・辛い・・・Hさんの心の痛みがぐんぐん響いてくる。
先生という言葉は初めての言葉である。きっと藁にもすがる思いで側に来てくれたのだろう。
“素の自分”に戻った瞬間に辛さが何十倍にもなって訪れたのだろう。
認知症が進行し何もわからなくなったと思っても、ふとした瞬間に自分を取り戻し、
「自分は一体どうなってしまったんだろう。家族はどこへ行ってしまったのか」と・・・不安がすます増幅する事がある。
そのような場面で、ぞんざいな扱いをされたり子供のような扱いを受けると「ここから早く出よう。間違えて来てしまった」と急に外へ出て行く場面は自然である。
いつでも、変わりなく普通の人の扱いを受けることが、どのような感情を引き起こしても居心地は悪くはなく、
「知らないところへ来てしまったが、まんざら悪くはないなー。もう少し様子をみようかと・・・」興奮することもなく穏やかに時を過ごすことが出来る。
認知症を患い記憶の障害があっても感情はしっかり残ることを忘れてはいけない。
言葉をやっと思い出し言葉をつなぎながら訴える心からの叫びから、認知症の人の苦しみを再度理解させていただく場面となった。
一生私は、あのHさんの辛い、もの悲しい眼差しを忘れることはできないだろう。
せめて、認知症の人の”悲しい心の内”を伝える事が課せられた自分への課題なのだろう。
力の弱さをつくづく思い知らされる介護現場の場面であった。
「井を掘るは水を得る為なり。学を講ずるは道を得るが為なり。水を得ざれば掘ること深しと言えども、井とするに足らず。道を得ざれば講ずること勤むと言えども、学とするに足らず」(講孟余話)吉田松陰
「井戸を掘るのは水を得るためであり、学問をするのは人の生きる道を知るためである。
水を得ることが出来なければ、どんなに深く掘っても井戸とは言えぬように、たとえどんなに勉強に励んでも、人の生きる正しい道を知ることがなければ、学問をしたとは言えない」
例えば、認知症の勉強に時間をかけ経費をかけ、いくら学んでも自分がどのような介護を目指しどのような理念があるのか、心の中にいつも測定するものを入れておかなければ、
一番重要な認知症の人の気持ちをくみ取ることはできない。
まずは人として”どう生きるのか”「生きること、認知症の学びを得ること」この2つの学びを互いに照らし合わせながら同時進行で学ばなければ真の学びとは言えない。