精神学術講演会
十数年以上前に、浦河のべてるの家の人々が北見へいらしたことがあります。
「自分達は、精神分裂症(統合失調症)です」と、
できるなら忘れたい病名をぐーんと近づけて明るくのびのびと皆さんに伝えていたことを、
昨日の釧路からいらしたH先生の学術講演会から再度思い出す事ができました。
とても親しい友人の子供さんも心の病気となり、友人の顔をしばらく見ていませんが脳裏からは、いつも離れたことはありません。
地域には多くの認知症の年老いた親と共に統合失調の子供さんと暮らしている方、
統合失調症から認知症発症となり高齢と共に認知症状が強くなり入居されている方、
グループホームの中には、認知症とはいっても複雑な症状を伴う人々が暮らし始め、毎日試行錯誤の中でより良い空間を求めていくには、
なぜ、どうして、
と、いう考える力が必要になります。
しかし、昨日の学びの中においても「自分だったら」という従来の精神病院に染まらない純粋な院長の心の発信が入院している患者の心を変え、
地域を変えていくこと、
まさにパーソンセンタードケア(その人中心のケア)だと共感させていただきました。
今、地域はだれもが普通に暮らす事ができる地域になりつつあるのです。
統合失調症の人も、認知症の人も、ごく自然であり、
普通と言われている私達が一番偏見をもち、一番やっかいな人間なのかもしれません。
いつか、友人への手助けが出来る日がくることを目標にしたいと思います。
観音は〈観る音・観える音〉とも読めます。(観世音菩薩)
先日講義で行かせていただいた北見市立仁頃高校の校長先生と生徒が毎朝朗読に用いている八木重吉さんの詩があります。
幼い日は
水がものをいう日
木がそだてば
そだつひびきが
聞こえる日
幼い頃には、誰もが草や木や水に語りかけ互いに通じる空間がありました。
しかし、大人になるとその動作や、その感性さえも忘れてしまいました。
人間が原点にたてば今でもできるといいます。
「観音」のはたらきを身近なことから、人間性の自覚にいたるまで説いてあるのが「観音経」だと・・・