「大学」11.
詩に云(い)わく、彼(か)の淇(き)の澳(いく)を瞻(み)れば、緑竹猗猗(りょくちくいい)たり。
斐(ひ)たる君子(くんし)有(あ)り、切(せっ)するが如(ごと)く、磋(さ)するが如(ごと)く、
琢(たく)するが如く磨(ま)するが如し。瑟(しつ)たり僴(かん)たり、赫(かく)たり喧(けん)たり。
斐(ひ)たる君子有り、終(つい)に諠(わす)るべからずと。
切(せっ)するが如(ごと)く磋(さ)するが如(ごと)しとは、學(がく)を道(い)うなり。
琢(たく)するが如く磨(ま)するが如しとは、自(みずか)ら修(おさ)むるなり。
瑟(しつ)たり僴(かん)たりとは、恂慄(じゅんりつ)なり。赫(かく)たり喧(けん)たりとは、威儀(いぎ)なり。
斐(ひ)たる君子(くんし)有(あ)り終(つい)に諠(わす)るべからずとは、盛徳至善(せいとくしぜん)、民の忘(わす)るる能(あた)わざるを道(い)うなり。
○詩経(衛風淇澳(きいく)篇)に「かの淇水(きすい)のほとりを見ると緑の竹がみずみずしく茂っている。そのように教養豊かな君子がいる、それは丁度、骨や象牙を切り、丁寧にやすりをかけてなめらかにし、石や玉をちりばめて砂で磨きあげるようなものである。
おうようで、ゆったりとし、明るくて朗らかな、教養ある人物は一度会えば生涯忘れることができない。
切するが如く磋(さ)するが如(ごと)しというのは厭(あ)くことなく学び続けるということであり、琢(たく)するが如く磨(ま)するが如しというのは、自ら修養して徳を積むことである。
瑟(しつ)たり僴(かん)たりというのは、おうようでゆったりしていながら、人はどことなくおそれを感ずる。赫(かく)たり喧(けん)たりと言うのは、どことなくたちいふるまいに威厳があっていつまでも忘れられない。
徳高く至善に止まる文王武王の風貌を民は長く忘れることが出来ないのを言ったのである。
「大学」を素読するより引用
楽をするのは瞬間であるが、学びを続けるのは長い時間との戦いのような気がする。
学びが瞬間と思えるようになると「ほんの少しは成長したね」と自分を認めてあげても良いのだろうが、まだまだ試練の道が続きそうである。
しかし、どこかで、その道を少しでも続けていた方が何だか心が充実するような気がするのは、人は「学びたい」と生まれながらに潜在意識の中に持ち備えているのかも知れない。