「大学」12.
詩に云(い)わく、於戯(ああ)前王(ぜんのう)忘(わす)れられずと。君子は其の賢(けん)を賢として、其の親(しん)を親ととす。
小人は其の楽しみを楽しみとして、其の利を利とす。此(ここ)を以(もっ)て世を没(おわ)りて忘れらざらなるなり。
子曰(のたま)わく、訟(うったえ)を聴くこと吾猶人(われなおひと)のごときなり。
必ずや訟無(うったえんな)から使(し)めんかと。情無き(まことな)き者は、其のこ辭(ことば)を盡(つく)すを得ず。大いに民の志を畏(おそ)れしむ。此(こ)れを本(もと)を知(し)ると謂(い)う。
此(こ)れを本(もと)を知(し)ると謂(い)う。
此(こ)れを知(ち)の至(いた)りと謂(い)うなり。
○ 孔子が、「訴えを聴いて判決を下すのは自分も他の裁判官と変わることはない。
然し私の究極の願いは訴えの無いような世の中にすることだ」と言われた。
真実(まこと)のない嘘偽(うそ)の訟は、結局言葉を尽くして言い張ることが出来なくなるものだ。
要するに民が自ら省て、自ら畏れて訟が出来なくさせる。
これを人の道の本を知るというのである。
これをまた知の至りともいうのである。
「大学「を素読する より引用