「大学」16
所謂(いわゆる)身を修(おさ)むるには、
其の心を正しうするに在(あ)りとは、
身(み)忿(ふん)嚏(ち)する所有れば、則ち其の正しきを得ず。
恐(きょう)懼(く)する所(ところ)有(あ)れば、
則ち其の正しきを得ず。好楽(こうらく)する所有れば、則ち其の正しきを得ず。
憂患(ゆうかん)する所有れば、則(すなわ)ち其の正しきを得ず。
心(こころ)焉(ここ)に在らざれば、視(み)て見えず、
聴きて聞こえず、食う(くら)いて其の心の味を知らず。
此(これ)を身を修るには、其の心をただしうするに在りと謂う。
八丈目に、「身を修るには、其の心を正しうするに在り」とは、例えば身(心の存する肉体)に怒りを含んでいる時は
正しく判断することはできない。
恐れを懷(か)いている時は正しく判断することはできない。片寄って好んだり楽しんだりするところがあれば正しく判断することはできない。
甚だ心配する所があれば、正しく判断することができない。心が散漫して止まる所がなければ、視ても其の真実が見えない。
聴いても其の真実が聞こえない。又、食べても本当の味がわからないと言うことである。
「大学」を素読する引用 伊與田 覺 致知出版社
全くその通りであります。
いかにどのような場面に転じても心を落ち着かせ、礼を失する事の無いように努力をする事が大事と自身に言い聞かせていますが、満足という日は日々遠く修行の最中であります。
「降りてゆく生き方」順調に進んでいます。もう少しの確認作業でアップできそうです。
何事にも、心を忘れず、多忙なときほど慎重に行わなければならないのでしょうね。一つひとつの出来事からの学びが多く、改めて人様の心に感謝をさせていただいております。
せっかくの価値を問う映画上映であり、この映画上映をすすめて行く中にも学びがたくさんあります。