広島ならではの新聞記事より
先日、広島の地を踏ませていただいたときの新聞記事をお伝えさせてください。9月1日付の読売新聞記事より
京都大学を卒業し大阪で国語教師として働いていたという天野 昭文さんは、当時被爆者のグループをつくろうとしたときのことでした。
「故郷を離れても、同じ境遇の者が集まれば心強いはず」と考え、(当時)市でみせてもらった被爆者検診の名簿を頼りに1件ずつ参加を呼びかけて回りました。
多くの人が熱心に耳を傾けてくれたのですが、ある家で「二度と来てくれるな」と門前払いを食わされたのです。聞けば、結婚前の娘さんがいたそうで、顔のケロイドが私の出入りすると、被爆者であることが周囲に知られると懸念したからでしょう。当時はそれだけ、被爆者への風当たりは強かったのです。
被爆時は旧制中学3学年した。爆心地近くで予定されていた建物の疎開作業に向かう途中、広島駅のプラットホームで突然青白い光に包まれて熱風に襲われ5メートル以上離れた歩道まで吹き飛ばされていました。
顔や両手足は焼けただれ、服についた火を皮膚のむけた手で消し、崩れ落ちた家の下敷きになった女性が必死ではい出ようとしてもだれも手を貸すことすらできません。無我夢中で線路伝いを歩きました。
家にたどり着いたのは翌日。約1ヶ月後、40度の高熱が出て、体に斑点ができました。急性白血病です。食べ物も痛みで食べられず死を覚悟しました。
それでも何とか、命をつなぎ3ヶ月後に学校へ復帰。級友の多くが亡くなり、暗黒のような日々でした。学生時代の被爆者への差別はひどく、民間企業も試験すら受けられない状況でした。結局グループ結成は断念しました。
そして今年の8月、広島市で開かれた元教師の被爆者らによる「ひろしまを語り継ぐ教師の会」に出席し、体験を話しました。 読売新聞記事一部抜粋
被爆の体験は、この道内では少なく現地ならではの新聞報道が深く入りました。