幼子と大人の違いか・・「大学」17.
所謂(いわゆる)其(そ)の家を齋(ととの)うるには、
其(そ)の身を修(おさむ)るに在りとは、
人(ひと)其(そ)の親愛する所(ところ)に之(お)いて辟(へき)す。
其の賤悪(せんお)する所(ところ)に之(お)いて辟(へき)す。
其の畏敬(いけい)する所に之(お)いて辟(へき)す。
其の哀矜(あいきょう)する所に之(お)いて辟(へき)す。
其の傲惰(ごうだ)する所(ところ)に之(お)いて辟(へき)す。
故(ゆえ)に好みてその悪しきを知り、惡(にく)みてその美を知る者は、天下に鮮(すく)なし。
故に諺(ことわざ)に之(こ)れ有(あ)り、曰(い)わく、人は其の子の惡(あ)しきを知る莫(な)く、其の苗の碩(おお)いなるを知る莫(な)しと。
○ 八条目に「其の家を齋うるには、其の身を修るに在り」とあるのは、例えば、人は特に親しみ愛すると片寄って正常を失う。
特にいやしみにくむ所があると片寄って正常を失う。
特におそれうやまう所があれば片寄って正常を失う。
特にかなしみあわれむ所があれば片寄って正常を失う。
又特におごりおこたる所があれば片寄って正常を失うことになるということである。
そこで好んでその者の悪い点を知り、逆に憎んでその者の美点を知る者は世の中に甚だ少ないものだ。
○ 故に昔からの諺に親はわが子の悪いことを知らない。農夫は自分の作った苗が他に比べて大きく育っているのを知らないとある。引用文献「大学」を素読する。
ふとした心の油断から平常心を失うことがあるが、
それは心の全てを開放しているときの幼子の心のようである。
大人とは、どのような場面に遭遇しても心の奥に平常心という測定器を働かせ、
目の前の修羅場においても、
また大きな喜びの最中においても
常に平常心という測定器を働かせることが大人の一歩なのか・・。