日本人による開拓の歴史と高校生が制作した北方領土問題啓発番組

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国後島の古釜布

江戸幕府は1799年から漁場を開いたり、幕吏を常駐させるなど本格的な北方の島々の開発を始めました。

 

 

 

 

日本人による開拓の歴史

1635年(寛永12年)、北海道を支配していた松前藩は、北海道全島及び千島、樺太を含む蝦夷(えぞ)地方の調査を行いました。

 

 

 

1644年(正保元年)の幕命により諸藩から提出された国絵図に基づいて、幕府が作成した日本総図(いわゆる「正保御国絵図」)には、「くなしり、えとほろ、うるふ」などの島名がはっきり記載されています。

 

 

 

 ロシア人が初めて得撫(うるっぷ)島に来て、長期滞在して越年したのは、1766年(明和3年)ですが、住民の反抗にあって翌年帰国しています。

 

 

 

その後、ロシア人は再々この方面に進出して、住民との間に衝突が絶えない状況でした。

 

 

 

 千島へのロシアの活発な進出を知った幕府は、みずから北方の島々の経営に本格的に取り組むこととし、1785年(天明5年)及び1791年(寛政3年)に最上徳内らを調査に派遣しました。

 

 

 

同人は、国後島から択捉島に渡ってロシアの南下の状況を克明に調査し、さらに得撫島に上陸して同島以北の諸島の情勢も察知しています。

 

 

 

 幕府は、国防上、千島、樺太を含む蝦夷地を直轄地として統治することとし、1798年(寛政10年)、大規模な巡察隊を同地方に派遣しました。

 

 

 

このとき、近藤重蔵は最上徳内と共に国後島、択捉島を調査し、択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てています。

 

 

 

翌1799年から1800年にかけて、近藤重蔵は高田屋嘉兵衛らと共に、再び国後島、択捉島に渡り択捉島に本土の行政を移入、郷村制を施き、17か所の漁場を開くと共に幕吏を常駐させました。

 

 

 

 

自国の為に何等の利得をも欲求するものに非ず又領土拡張の何等の念も有するものに非ず また、航路や港の整備などにより、色丹島、国後島、択捉島の本格的開発が始められました。

 

 

 

 

北方対策本部 引用

 

 

 

 

 

 

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旧ソ連軍による北方領土の不法占拠により、返還要求運動がスタートして60年、目に見える外交交渉の進展もなく、返還要求運動の中心となっている元島民は、故郷に帰ることを夢見ながら既に約半数が亡くなっています。

 

 

 

 

  この番組は、今後北方領土返還要求運動を担うであろう若い世代への啓発を目的として、道内から選ばれた高校生放送局員8人が制作した番組です。

 

 

 

 北方領土問題の知識も関心も薄かった8人が、平成17年3月から9カ月間をかけて、実際に根室や北方領土に行き、日本人の元島民やロシア人の島民などいろいろな人に取材し、制作した番組です。

 

 

企画 北海道総務部北方領土対策本部

制作 北海道高等学校文化連盟放送専門部

・プロジェクト4(制作高校生)

http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sm/hrt/hp/koukou.htm