天からの試験
試験
保健所に捨てられた犬、
会議で偶然に通りかかったと思ったが、
それは、用意された偶然ではなく必然のようだとも思える。
「まだ1ヶ月ほどの可愛い子犬なんです。
犬を助けてください」と、
「キャンキャン」鳴いている犬の声を聞き、
掃除のおばさんに話しかけると、
おばさんは、堰を切ったように話し出した。
コンクリートの殺伐とした空間の中で鎖は短く「何をされるのだろう」と、
危機を感じていた真っ黒の子犬は、
風貌の違う自分に、
精一杯、尾をちぎれんばかりに振り、
「助けて、助けて」と体全身から哀願するようにキャンキャン叫び続けている。
子犬の、その奥に、
声も出せず、悲しく深い面持ちで、
自分の身に迫り来る出来事を理解しているかのごとく、
落ち着きはらった老犬がいた。
声も出さずにじーっと穏やかにこちらを見つめるその姿からは、
声にならない声が
深く重くしかかり、
ホームで仕事をしながらも、
人間に対する老犬の突き刺さった思いが蘇った。
スタッフの了解を半ば強制的にいただき、
3時間後にはエーデルワイスの太郎と花子になっていた。
太郎は、当事ほえることもなく、
為すがまま抵抗もせず穏やかに車に乗ることができた。
太郎はグループホームの利用者や近所の方にも可愛がられ、
いつもの面会の家族は、毎日のように太郎と散歩に出かけていただき、
近所の人々は、「良かった、良かった」と我が事のように、
命を永らえたことを喜んでいただけている。
花子は我が家で愛嬌をふりながら外で番犬として暮らしている。
人には生まれたときに用意された天からの試験のように、
生きて行く中で試されると思うことが多々あるのかと考える。
そして、もし、功徳となるならば、
最後に看取ることができなかった亡き父や、
「ご先祖様への功徳となるように」と念じながら働かせていただいている自分がいる。
目に見える現象は無くなっても、
目に見えぬ真実は、必ずや通じるものがあると思うと、
生きていく中で喜んで天にお返しをさせていただくことができる。
親孝行は親が亡くなっても自分の命がある限り届けることができるのである。