テストの成績が100点だった人には辛い話である
集中するもの、
集中するには、その人にとって関心のあるものが一番興味を引くものとなる。
脳のダメージを受けている認知症の人にとって、
長い話は禁物であり、
もちろん説得なんてとんでもない・・と、対応方法の基本であるが、
特に日本の昔話には、長い話も筋を追い、
ストーリーから次の展開を予想するという、
大きな限りない力を出していただける。
しかし、誰もが語るとOKなのかと言うと、少し違ってくる。
話してのキャラクターと相手を思い敬う態度が必要なのである。
人生のその瞬間をいただくのであるから、
プロは自分磨き、つまりは練習が必ず必要になり、
事前の心構えが相手を敬う態度と比例する。
しかし、認知症介護の場面においては、
今までの学校で習った教科書以外の想定しかねない場面とぶつかることがあり、
テストの成績が100点だった人には辛い話である。
前回も少し触れたが、
たとえば、
歩くこと、
体が覚えている生まれながらの機能が自然と働き歩いている。
しかし、
急ぎ足で側を通った別の利用者さんに意識がとられると、
無意識の中で自然と歩くことができた作用が、
自分がなぜ、ここにいたのだろう。
自分は、どこへ行こうとしたのだろうと、
何気なく歩いていた歩行の順番を忘れてしまうことがある。
何とか、ここではない。
向こうに行きたいと思うのであるが、どうしたら歩けるのか忘れてしまう。
ふとした瞬間であるのだが、
本人は意識の中であわて次の動作に移ろうとする。
介護現場のスタッフは、立ち止まっているのかな・・と思っている矢先に、
ついには、両足を同時に出そうとし転倒する場面となる。
歩行だけに限らず入浴の場面などでも同じである。
一歩が出なくなったり、
今までできた、またぎ行動ができなくなるのである。
これは、ある日、突然襲ってくる。
これには、またいでみせる工夫が必要である。
つまりジェスチャーである。
言葉での理解は困難なわけである。
しかし、見せるには相手の体から手が離れてしまう危険が伴う。
このような危険行為が高まったときには、入浴は実行しないほうが懸命であるのだが、
介護を志す人々は、
家族が困っているのだからと、危険を強いてでも入浴を実行させようと努力をする。
痛い思いは認知症の人のみならず、介護するスタッフに苦しい思いが押し寄せ、
しまいには介護は向いていない。
辞めさせてほしいと辛い場面となることも多々ある。
まず、
認知症という病気の種類と進行状態を知ることや、
その人の前日からの睡眠、排便、水分、健康状態、、服薬内容、通所であれば家族関係等、
通所前の厳しい言葉が突き刺さったままの利用になると、
内容は忘れても感情だけが、しっかりと取り残され、
他の利用者とも交流が上手くいかない場面となる。
これは、通所送迎時の気づきとなり家族介護からのストレス判断にもなることである。
介護を知ると理解できることがたくさんあり、ヒヤリハットからも幾重にも分析ができ、
分析から新たな介護方法が生み出される。
事故報告書は少ない方が良いのに決まっているが、
ヒヤリハットの報告書は、新たな認知症介護となるものに通じ、
事故になる前の気づきを宝に変換できるものとなる。
いまや、簡単に裁判があちら、こちらで起きる現状であるが、
介護の人々も、
介護の現場の人にしかわからない現場を、
きちんと言語化して伝えることが、
介護人材難を食い止めることにもなる。
物事には、必ず理由があること。
特に認知症介護の場合、
表面に出てきた結果だけで評価されると本質から離れてしなうことがあり、
介護職のやる気までをも失う結果となる。
すべては後ろ向きとなり後退すると思われる。
大事なのは、介護過程においてどのような一つ一つのプロセスを踏んできたかということである。
介護が社会化してきた今、
行政、弁護士、裁判官には専門的知識を多く求めたい。