高齢者は、右に倣わず自分らしく自分の人生を最後まで生ききることだ。
歩く事や
思考の老化防止など、
書物を読み、そのような条件が現在の環境から整わない場合、
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出張も苦にならず
そのような環境をつくり行動しようとすると
やはり
体が好む適当な気温と
太陽を浴び
急ぎ足気味で歩ける条件を大変と思わず
好んで挑戦すると
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(夜)
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環境は、ある程度の都会が必要で、
人ごみの中でも
席が空いていなくても
心のどこかにこれも運動と言い聞かせ
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(夜)
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時計の針と
多くの路線が並ぶ乗車場の繰り返しの選択から、
頭も活性させることになり、
迫りくる時間と戦いながらも
数時間の自分からの時間のゲットから、
随分と満たされた自分が戻ってくる。
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(昼)
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時間を追う生活も
目的思考を変化させると
充実感が高まり
移動時には温かなところが一番だと瞬間思うが
北見の地に着いた寒暖差から
あーなんだか体もピシッと締まる。
やっぱり北見の地が体にあっているのだと
年齢はすでに満たされているが老後をどこにするのか、と
考える自分がいるが
*
(昼)
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今後は
何度も何度もこのような展開から
方向付けが決まるのだろう。
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一生現役
倒れる場は現場であり、
延命は必要なし!と
65歳の今の自分の考えであり
人は、その年代に到達して初めて考えつくこともあり
延命はどうしますか?と聞かれても
その最期の瞬間まで本当は不明であり迷って当然なのだとも
思えてくる。
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(昼)
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70歳まで御縁があるならば、
また、
様々な場面で違った考えが出現するのかもしれない。
友人が、
「あのね!本当のこと言っていい。
人はね。看取りの時期です。と言われ、延命はいりませんと伝え、
家族は、落胆するかもしれないけれど、そのときが過ぎても
生かされている場合には、
そのときはいつなのだろうと、待つようになるの」と。
◆◆
そうか!理解はしていたが言葉で自分以外の人から聞くと
良く納得が出来る。
自分等は、入居等ご利用開始時に
『今の時点で、もしものときには延命はどうしますか』と、お聞きするが、
それは、誰のためなのだろう!
・・・
認知症になると極端に食事が摂れなくなる時期が来るが、
本来ならば、終末期ですねとの診断があってあたりまえの時期から
対応により
その後、1年、2年と経過するのも普通である。
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(昼)
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物事をよーく、
流されず見つめていきその年齢で考えてみると
随分と見方が変わるものがあるものだ。
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苦しんでいるときには救急車であり、
朝、目が覚めたら心停止だった・・・と。
その時が来たら
『あーろうそくの火が消えるように命の火も燃え尽きたのですね。
永い人生、よく戦いましたね。
ご苦労様でした。』
と言われる方がすっきりとするようにも自分は思えてくる。
*
しかし、救急車で搬送され家族にそのことを聞かれても
日頃から会話がなければ伝えることもできない。
日常からの何気ない言葉を交わす事も残された家族の
負担軽減になる。
財産を残さずとも、
せめて自分から始まった人生の後始末をすることが
唯一、後悔のしない親としての人生となるのだろう。
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そうだ!
人生は戦いなのだ!
*
(昼)
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社会に左右されない自分をつくることも
老化防止になり
人とは違う事を言うことで
変わり者、頑固者と言われる言葉も引き受けよう。
高齢者は、右に倣わず自分らしく自分の人生を最後まで生ききることだ。