身分差別のない松下村塾
〜明倫館で飽き足りない者も松陰のもとへ集ってきました。〜
士農工商の身分制度の厳しかった時代に、他人で初めて医者になるための漢籍(中国の文献)を習いに来た医者の子や隣家の足軽(雑益の歩兵)の子が松陰のもとへ集って来ました。
次に来たのが松浦亀太郎という近所の魚屋の子で、後に画家になり号を松洞といい松陰の座像を描きました。
松陰は、それぞれの才能を十分に引き出していたようです。
当時の藩校、明倫館は士族しか入れませんでしたから、松下村塾は身分制度の厳しい時代に極めて革新的なことでした。
平民の中にも明倫館に入れるほどの方もいましたが当時の藩校には入ることが出来ず松下村塾で志を成し遂げる者や、
明倫館の教育に飽き足りない者が松陰のもとへ集ってきたと言いますから松陰の人間的魅力や学力も相当なものだったのですね。
参考文献 人はなぜ勉強するのか 千秋の人吉田松陰より